第114回 < 経済的成長と個々の幸せの尺度について >

ここ数年、プライベートな食事の場で最も活発に議論される内容のひとつが日本の将来についてです。金融業に身を置く個人の立場で日本の将来を話すときには、自然と日本の経済成長がどのくらい維持可能なもので、それが個人に対してどのような影響を与えるのか、という話が多くなります。ここ15年以上実質デフレの日本においては、株価や物価の上昇や、かつての好景気は過去のものとなっています。さらに、日本は出生率が2009年に1.37と先進国の中でも韓国に次いで低く、人口もピークアウトしました。単純計算すると、100年後には今の人口の半分以下になります。出生率向上や移民受入れの手当てをしない限り、国内総生産(GDP)は、生産性の増減によって速度は変わるものの、概ね低下していくことは確実と思われます。

そのような前提の中で、必ずといっても良いほどに議論が分かれるのが、そもそも経済成長は必要か否かという点です。言い換えれば、経済成長が人を幸せにする手段なのかどうかという内容です。出生率の向上や移民受け入れをしてまで経済成長をしなくても、あるいは、個々人が無理な努力をしてまで生産性を上げなくても国民は十分に幸せになれるのではないだろうか、とういのが一方の議論です。今の生活レベルを維持するためにもある程度の政府(公共)支出は必要です。総生産が落ち込む過程では徐々に、あるいは急激に不便になる生活を甘受する必要があるかもしれません。もう一方では、人間は成長をすることで喜びを感じ、現代社会では、特に経済的成長、個人レベルではお金が増えない中では幸せを感じられないのではないか、という議論もあります。少しでも便利で快適なインフラを追い求めて、それを手に入れることが幸せであると。もちろん、こんな単純に二極化された話ではないのですが、なぜかこの手の議論は、仲間内でもコンセンサスに到達することがめったにありません。

いつもなぜこの手の議論がかみ合わないのかを考えてみると、だいたい以下の点で前提が異なっているためではないかと思います。一つ目は時間軸です。われわれが議論をするときに、自然と一人ひとりが前提となる時間軸を定めているようです。ある人は5年後の自分を、ある人は退職時点の自分を、またある人は自分の子供や孫の世代です。二つ目は、自分を含めた身近な存在の幸せを想像するか、あるいは漠然とした「国民」を想像するかによる違いです。想像している経済のシナリオが同じであったとしても、上述のような視点を変えることで、意見も異なってくるようです。また、GDPの成長と水準を混同するケースも意見の相違に影響します。

各種アンケートから見られるように、あるいは想像できる範囲でも、所得額や貯蓄は「ある一定のレベルを超えていれば」、個々人の幸せに直結しないことは十分に理解できます。家族とともに過ごす時間や、安全、文化、平和、読書など必ずしもお金を使わない幸せは十分に存在しそうです。一方で、先々に希望が持てるか、言い換えれば自分や次の世代に成長の可能性があると考えられることは、幸せと密接な関係があるような気がします。これは水準の問題ではなく、方向性の問題だと考えています。経済的成長であれ、技術力向上や知的向上心であれ、自分が成長していると実感できるときには満足を覚えますが、これから一切の成長は見込まれない場合には緩やかな衰退というシナリオが最もありそうな話です。人によっては緩やかな衰退は決して悪い選択肢ではない、という意見もありますが、これは子供を含めた若い次世代にそのような方向性を課すことにもつながり、そこには疑問も生まれます。

宗教、政治、哲学は個々人の性質に根ざしているので、議論をするとかみ合わないのが当たり前かもしれません。それと同時に世代間の所得の再配分を含めた経済成長に対する個人の考え方、それを幸せと直結して考えるか否かも、現代においてはかみ合わないのが当たり前の議題になっているのかもしれません。

過去の友人たちとの議論も踏まえてみると、私にとっての成長と幸せは大いに関連していると思います。経済的成長を含めて成長というのは簡単なものではなく、日々の弛まない努力なくしては達成できないものだと思います。知的成長であれば勉強を、技術向上であれば訓練を、経済的成長であれば仕事を、それぞれの努力を行わなくなった時点で、それは既に自ら成長を放棄し、精神的な幸せや満足感を得られなくなる可能性が高いのではないかと。したがって、経済成長と個々人の幸せは必ずしも直接結びついていないにしても、幸せを感じるためのひとつの大事な手段には違いないということがミクロ的な視点から言えるような気がします。また、技術力向上や知的レベル向上と異なり、経済的成長は空間(周囲)や世代を超えて広範囲に影響を与えやすい側面があるので、結果を確認する機会が多く、行動を起こした人々は満足を覚えやすいのではないかとも思います。

先日の友人たちとの議論の中で、アルコールの助けも借りて大いに加熱した議論だったのですが、一人で静かに経済成長を含めた幸せの尺度についてあれこれ考えるのは、なぜかあまり盛り上がりませんでした。結局幸せは一人ひとりの気の持ち様であり、特定の条件を指しているものではなさそうです。幸せの王国ブータンを見習い、常に幸せを感じるには、私の精神的修養はまだまだ足りていないようです。