花火と解いて、COVID-19の世界的な対策とかける。その心は

私の住む浅草の7月といえば、暑い夏の日差しの和らぐ夕暮れから夜にかけて、夜空を彩る光と音による一瞬の花々たち、隅田川の花火大会です。古くは江戸の頃に、江戸と東国を結ぶ唯一の橋であった両国橋のあたりで毎晩数発上がるのを夕涼みに眺めていたそうなのですが、今や毎年20,000発前後が一晩に打ち上げられます。テレビ放送で有名な第一会場のコンテストもいいのですが、第二会場も1時間のうちに12,000発と、一晩の花火の半分以上をロックのような小気味良いテンポを作りながら打ち上げて、クライマックスでは光のカーテンと言えるほどの、これでもかという数を一気に打ち上げますので、個人的には第二会場推しです。なんて、話を多分毎年書いていますが、今年の花火大会も花火かそれをネタにみんなとわいわいやりたいのか、いずれにせよ人が集まるから、ということで中止が既に決定していますので、なかなか書いていて盛り上がりに欠けてしまいます。

本当は自分の撮ったもの、と思ったのですが通常写真を撮らず呑んでますので。。。

本当は自分の撮ったもの、と思ったのですが通常写真を撮らず呑んでますので。。。

名刺、このところ使ってませんが。。。

とはいえ、夏の浅草の名刺がわりといえば、他にもほおづき市に(下谷なので浅草なの?っていつも悩むのですが)朝顔市とまぁ、何枚もカードがありますが、名刺がわり、といってふとおもいだしたのが、この間のこと、かれこれ15年以上のお付き合いとなる、とあるファンドアドミも手がける会計事務所のインバウンドビジネス担当の方(ちなみに、初めてお会いした時、この彼女は事務所の代表パートナーの秘書さんだったのですが、そんな過去があるなんて知っているのは今や本人と代表パートナーと私など数少ない公然の秘密なのですが、美人さんで出来る人ってのはキャリアチェンジも華麗にできるので羨ましい限りです)から、「実は」と言われたことがありました。「プライベートのメールのシグネチャーが素敵です」と。

オンライン時代の今、名刺交換のできない中、名刺がわりになるのは色々と増えましたが、やっぱりメールのシグネチャーは目につくようです。とはいえ、私のプライベートのメールのシグネチャーがそんなに目立つか、と言われると。。。こんなですが、如何でしょう。

sorry for typo as I reverted on my small phone with my big hands.

——
Round the globe, round the clock

Shinobu MIYATA

Is waiting for your contact at:

で、この下に、メールアドレスや携帯番号、twitter や #みやたべろぐ でご存知の Instagram といったSNSの自己紹介のページ、個人のブログとこの投資小噺のリンクを貼っています。ということで、多分お褒めいただいたのは「大きな指で小さいスマホを使ってますので」というお断りではなく “Round the globe, round the clock” のくだりですね。これはもう20年以上使っているフレーズなのですが、ここで、おや、と思ったら、90年代の某米系商業銀行の関係者ですね?そうです、私が社会人になって最初に入った銀行の当時のキャッチフレーズ “Around the world, around the clock, (ぴーっ) never sleeps” から拝借したのです。

今や、普通に世の中のビジネスが24/7 モードで、全てのタイムゾーンを巻き込みながら行われるのが当たり前ですが、90年代はインターネットの黎明期であり、まだそこまで地球規模の繋がりを意識する、ということを思いもしなかったところで出会ったフレーズでしたので、around を米語から英語の round に変えて使っていますが、そういう発想をもらった当時の雇い主に対する、今で言うオマージュ、と言ったところでしょうか。

オマージュと言って思い出すのがどう言うわけか。。。

とはいえ、私のオマージュなぞかわいいもので、当時の私の上司たち(社内でも有名だった兄弟の二人ともがその時々で上司の役割を果たしてくれました)の、会社はもとより、彼らの愛して止まない映画、作品中に出てくる車や時代背景、その映画監督や楽曲の作曲家、はてはその映画監督に影響を与えた監督たちへの傾倒ぶりは、彼らの仕事の組み立て方から仕事の中に見え隠れさせる遊び心まで、徹底した作品への愛に基づく調査が裏付けていたのを思い出しました。

その結果、だとは思いませんが、二人とも会社に住んでいるのでは、と思うくらい働き(お陰で同じように私も働き)、同じくらいの熱量で遊んでいましたから、前述の銀行のキャッチフレーズにある ”never sleeps” の如く睡眠時間が少なかったようで、気づくと一人は(金融系の人がちょくちょく罹っている人を見る)潰瘍性大腸炎に、もう一人は数年前に世界中で氷入りの水バケツを被って募金をすることで有名になったALSの親戚の病気とも言えるMSAを患うこととなりました(無論、睡眠不足とこれらの病気の因果関係というのは証明されていません。念のため)。もうお二人にはお会いしてちゃんとお話しする機会を10年以上逸していたのですが、過日人づたえにMSAを患っていた方の訃報に伏すこととなりました。最後の数年は、ご家族はもとより、大好きで元気だった頃から全力でサポートしていた生まれ故郷のサッカーチームのサポーターたちに支えられていたと聞きましたし、戒名も本当に好きだった映画とサッカーから頂いたようでしたので、神妙な気持ちというより、ああ、本当に大好きで向こうまで持っていってしまったか、と不遜ながらも彼の人となりを思い出してニヤッとしてしまいました。

ご存知ですか?難病のこと

ちなみに、このMSAですが、ちょっと古い統計になるものの、全国でこの病気により難病指定を受けて医療受給者証を持っていたのが12,000人足らず。この病気の親戚と言ってしまった ALSで 10,000人程度、よくこの病気と症状が似ていると言われるパーキンソン病が10万人あたり100-150人と言われていますので、ざっくり120,000人程度いることになるので、MSAやALSは難病の中でも臨床数の少ない病気であることがお分かりいただけると思います。日本で10,000人程度のALSについては、その知名度とその病気への特効薬開発のための募金キャンペーンが、アイスバケツを被るというのが広まったと同時に知られたのですが、それでもまだ治療法の確立はされていないようです。

病気としては大変ですが

これに対して、COVID-19はどうでしょう。残念ながら、世界で見れば 1日での感染者数がMSAやALSの国内の全患者数を軽く上回る勢いがまだまだ続いています。これだけの患者が毎日発生するならば、いまそこにある危機でありすぐにでも解決せねばならない問題として、そして、いやらしい話をするならば、そこに花火が上がったのを見物するかの如く収益を求めるビジネス機会を見出す人も含めて、世界中の叡智と資材が集中的に注ぎ込まれています。そこには検査をする、治療をする、投薬をする、予防をする、に限らず、そのエコシステムや、それに波及したところにすらお金が動き、知識が使われ、大きな意味での、今流行りの言葉の一つで、都内の私立中学校あたりだとどこでもその思考法を教えている、「問題解決」ということが色々な形で行われます。

他方で、この大きく迫り来る問題のおかげで、難病治療はおろか、生活習慣病や生命の危機に緊急で晒されていないように見える病気の治療機会という、世界的な問題からしたら小さいな「私の問題」がちょっと押しのけられているのも事実だったりします。確かに、多くの人が生命の危機にある、という大きな社会問題も大事ですが、私のQoL (Quality of Life)は、というのも当事者にとってはとても大事ではあるのに、そこに線を引くのは一体何なんでしょう。

問題解決型のなんちゃら、って、そう考えると。。。

なかなか悩ましくもあり、あまり大きな声で言えないのが、それがCOVID-19なのか、SDGsの項目の一つに掲げられる地球の未来の存亡に関わる問題なのか、はたまた弊社の社長のテニスのサービスのスピードの向上なのか、はさておいたとしても、その問題に取り組むかどうかは、その問題に関わる人たちに対して関わり続けられるだけの収益を生み出し、その結果を享受できる人たちがどれだけ多いのか、という尺度が存在するのは否定できないところなのでしょう。こう書いてみて、ふと、大学院の論文のテーマを考えるにあたって、数学オタクが陥りがちな「問題のための問題」を考えるのではなく、「問題のご利益として何が得られるのか」、を考えろ、と数学科にしては現実的なセンスをお持ちだった担当教官に言われたのが頭をよぎったのはいうまでもありません。もちろん、これのおかげで生活における問題解決があれこれなされ、世界が急速に発展してより良い生活をできている結果、なのですが、これって、ふと我に戻ると、ファンド業界でかっこいい(そして稼げる)ポートフォリオマネジャーになりたがる人はたくさんいるのに(地味で日々無駄にストレスフルで報われない)事務屋のなり手が少ない、と言う安っぽい話と案外構図が一緒なのかもしれません。。。

オチの代わり、と言ってはなんですが

さて、人の病気の話を書いているだけではダメですので、ちょっと懺悔がわりの告白を。

実は1年ちょっと前に私は実母をなくしたのですが、その死因というのが、遺伝性脊髄小脳変性症、というMSAに似た、とはいえ東京都で当時でも臨床例 が60件にも満たない難病でした。しかも、それがちゃんと診断されたのが亡くなる1年前でした。それまで、あちこちのお医者さんに行ったのですが原因不明の、要は何が悪いのか診断できないと言われ続けたことで、母は医者嫌いになり、家に引きこもって社会と断絶する生活を10年以上過ごしていました。その間に、引きこもることで活動範囲も行動も制限されたことでだんだん小脳の機能が低下して(なんて後から病名がわかったから今更言えるのですが)、徐々に足で立ち上がって歩けなくなったり、呂律も回らなくなっていました。それでも、もう医者に行かない、と言って過ごしたために、正しい診断が出来たのが、もはや自分一人で身の周りのことが出来なくなって、実父が介護申請をせねば、というタイミングで、ちょっと疎遠になっていた実母の妹に脊髄小脳変性症の診断がなされたこと(とリハビリがわりに運動をしているので歩行等に不自由をしていないと言うこと)を実母の姉から聞いて、その話を医師にしたことでやっと医師がその角度で診察をして、この病気のことを調べてくれたから、でした。難病というのは、そもそも症例が少なすぎるため、難病である、と言う診断すらされづらいので、診断してもらい難病認定してもらうだけでも一苦労なのです。

その後、当然特効薬があるわけでもなく、動けるわけでもないですから介護というよりもターミナルケアの施設で日々スタッフに見守られながら最後の時まで過ごしていました。運動を司る小脳がいうことを聞かないですから、寝ていてもベッドの柵に手をぶつけたりし、最後は小脳の機能不全で呼吸機能を止めたようでした。彼女の誕生日の直前に69歳で亡くなったので、40過ぎてもインディでバンドマンをしている三男(最近はサブスクリプションで彼のバンドの曲が数曲聞けるようになりました。「ガムシロップ バンド」でぜひ検索を。)が、「母親は本当にロックな生き方だったなぁ」と評したように、その人生の終わり方も花火大会の終わりのように最後の一年で病気の謎解きができ、人に囲まれた生活で終わる、というそれまでの生活と異なる、ちょっとした煌めきのように終わったのかな、と。

お後がよろしいようで。