白木信一郎の「投資運用苦楽」

第304回 <ゲーム理論からみる米中貿易交渉>

米国は今年7月6日に中国に対して知的財産権侵害に対する制裁関税として340億ドル相当の輸入品に対して25%の課税を決定しました。8月23日には更に160億ドル相当が追加されることが決まっています。そのうえ、米政府は追加で2000億ドル規模の輸入品に対する追加関税を検討していると伝えています。

これに対し、中国は報復措置として、7月は即座に340億ドル相当に対する課税を、また8月の追加分に対して160億ドル相当の課税と米国と同額の追加を決定しています。しかし、米国が検討している2000億ドルは現在の中国の米国からの輸入総額を上回ることから、報復措置としては、追加で600億ドル相当の関税強化で対抗すると表明しています。

中国のGDP総額は2009年には日本を超え、2018年にはユーロを上回るものと推測されています。現状の成長率が続けばGDP2027年には中国の経済規模が米国を超えて世界一になると見られています。中国の驚異的な経済成長は、過去の日本と同様に対米の貿易黒字が支えてきた側面があります。米国にとってみれば、対中国との取引は貿易赤字の半分を占め続け、米国から中国への所得移転が中国の成長を支えてきており、米国の覇権を維持するためにもこれ以上の対中貿易赤字の継続を避けたいという考えが今回の保護主義的な関税強化につながっているものと思われます。

しかし、これらの関税強化が全て発動された場合、米国、中国ともにGDPが0.5%程度押し下げられる可能性があると思われるほか、世界経済にも大きなマイナス効果があるものと想定されています。結果として、今回の制裁関税に端を発する貿易戦争の影響で、当事者は双方とも現状に対して経済的な不利益を蒙ることになります。

トランプ政権が中間選挙をにらんだ人気取り政策として本制裁を発動させているのか、中長期的に収穫逓増を見込める産業の米国での囲い込みを意図しているのか、あるいはその組合せなのかは想像するしかありません。しかし、一連のニュースを通じて現象面を見ていると、今回の交渉は有名な「囚人のジレンマ」を想起させます。「囚人のジレンマ」は、2人の意思決定主体の行動分析からはじまった「ゲーム理論」の中核をなすゲーム状況のひとつです。今回の米中のような2者が「協調=関税維持」か「裏切り=関税強化」の2択を迫られた場合、以下の4つの状況が想定されます。「①維持(米)-維持(中)」、「②維持(米)-強化(中)」、「③強化(米)-維持(中)」、「④強化(米)-強化(中)」。

今回の2者の経済的な利得を考えれば、①はお互いにとっても全体としてもプラスです。②の場合は後者のみ、③の場合は前者のみが利得を得ることになり、④の場合は双方とも損失を蒙ります。中国側は今回、米国が制裁関税の交渉を開始したときに報復課税の可能性を表明しました。関税を強化したいという米国側のインセンティブに対して中国側は「囚人のジレンマ」に陥ることを回避するため、即時報復という牽制を提示しましたが、米国側は中国側の報復を吸収可能な痛みであると判断し、関税強化を実行したと考えられます。

今回のような、相手の出方を見ながら上述の選択肢を選ぶことになる「無期限繰り返し囚人のジレンマ」はゲーム理論の中で研究が進んでおり、このゲームで勝利するためにはTit-For-Tat(しっぺ返し)戦略が最も有効であることが知られています。「しっぺ返し戦略」とは、交渉の過程で、当初は協力を選択して相手の信用を得て、その後は毎回相手が取った選択肢をそのままやり返し続ける、という単純な戦略です。相手の動きを予測した幾つもの複雑なプログラムに対して「しっぺ返し戦略」は常に勝利してきました。

今回、両国が関税強化をすることが、双方にとってそれぞれの利益を最大化する、いわゆる「支配戦略」となります。しかし、両国が関税強化をすることで、双方が損失を蒙ることになり、「囚人のジレンマ」に陥ります。中国は対米の貿易交渉の過程でゲーム理論に従って、即時の報復行為を行うことで「しっぺ返し戦略」をとり続けています。トランプ政権が中国の報復に牽制されずに貿易戦争を仕掛けている現在、ジレンマから逃れるためには規制導入による利得の変化などが考えられますが、中国が期待しているWTO(世界貿易機関)の枠組みでの解決については期待薄と思われます。このように見ていくと、中国は一貫してゲーム理論に忠実に動いており、「囚人のジレンマ」からの脱却を模索する一方、米国は米中貿易における局所的な勝負には拘っていないように見えます。

中間選挙を経てトランプ政権が支持基盤を増した場合、現状の米国が先攻の「貿易戦争=無期限繰り返し囚人のジレンマ」が継続します。また、対米輸出額が米国からの輸入額を大きく上回る中国は、これ以上の関税引上げを通じての報復行為ができなくなり、貿易以外で対策を講じる必要が出てきます。一方、中間選挙を経てトランプ政権がレームダック化した場合、米国の強硬な態度の継続性について周囲からの信頼が失われる可能性が高まります。その場合、終始ゲーム理論に忠実に動いている中国側が有利になる可能性も残っているものと思われます。このように考えると、短期的にトランプ大統領が中間選挙を有利に進めるカードとして米中貿易交渉を行っているという指摘は的を射ているかもしれません。

いずれにしても米国がゲームのイニシアチブを失い、関税強化が長期化し、中国が対米の投資制限を強化する事態に発展し、世界経済が大きく停滞するほどの規模に拡大することは両国にとっても壊滅的な状況を作り出すと思われます。その場合、「囚人のジレンマ」から逃れる誘引が両者に働き、したがって、近い将来に何らかの形で両国が譲歩を行う可能性が高いと考えています。今後数ヶ月の状況を注視したいと思います。

あけぼの投資顧問株式会社 CEO兼CIO

ロンドン・ビジネススクール卒
1990年代はじめから債券投資、運用業務を経てヘッジファンド及びプライベートエクイティファンド等のオルタナティブ資産への投資を担当。ヘッジファンドの投資戦略に詳しく、セミナー、コンファレンス等において講師もつとめる。
AIMA(オルタナティブ・インベストメント・マネジメント・アソシエーション)日本の副会長。

著書:
[完全版]投資ファンドのすべて(2014)」金融財政事情研究会)
投資ファンドのすべて(2006)」(金融財政事情研究会)